【りさ】東北旅で学んだこと
何もない状態のことを
ゼロ、と呼ぶことにいたそう。
東北に行った理由は、
被災地の今を知りたかったからで。
テレビやら、スマホやら
なにかと光を発する物体から、
日常わたしが得ていた情報などには
悲しみとか、憐れみとか
そういう系の物体が、
気づかぬうちに入っていたらしい。
でも、
ホンモノの東北人たちは
冷たくて熱い硬い
氷のように芯が通っていた。
後ろではなく前を向き、
過去ではなく未来を生き、
自分ではなく相手を見ていた。
大きな津波に襲われて
何もかも失った大地に立ったとき
ここに街があったことなど
想像すら出来なかった。
あまりにも
何も見えないから、
悲しい気持ちにすらならない、
わたしの心の奥行きを知ったり。
そこに咲く小さな黄色い花が
少しだけ強く見えるだけ。
命あるように見えるだけ。
ただ、
せっせと耕しているのは、
色とりどりのブルドーザー。
身長をはるかに超える防波堤。
その街では
隣にあるはずの海は見えない。
近いはずの海は遠い。
海と街の間にいる
白いコンクリートの塊が、
どこまで暮らしを守るんだろう。
なにもないゼロがあったら、
イチをつくるのみだと思う。
マイナスだった過去を見て、
嘆いている暇などないんだ、と
教えてくれたのは、
現地の人たちだったな。
復興とは、
もとの街に戻ることじゃない。
もとの街よりいい街に、
進化することなんだ。
わたしたちは生まれ変わる。
もとの姿に戻ろうだなんて
思わない。
ゼロとは、
何もないことじゃなくて、
なんでもできることなんだ。
今日より明日、
明日より明後日を、
よくしていく、ただそれだけだ。
そうして作ったイチを、
みんなで守り、育てていく。
そして街は生まれ変わる。
そうして生きる人々の姿は、
わたしのこころに
グーパンチを食らわせた。
復興とか、被災とか、
ブルーなイメージのコトバたちを
履き去るようにひっくり返した。
被災地がわたしたちに、
求めているものは同情ではない、
期待、に似た "何か" なんだ。
だからわたしは、
東北の カコ をみるのはやめる。
東北の イマ を見たことが
この夏の財産だった。
東北の イマ は、
きれいに何もなかった。
けど、
何もない大地に、
どんな花を植えようか?
どんな木々を育てようか?
どんな ミライ を作ろうか?
と考える、
強い人たちがたくさんいた。
なにもない ことは
なにもできない ってことじゃない。
そういえば、
わたしの3ヶ月くらい前は
ゼロ
だった。
大事だと思ってた人を失った。
その "大事" すら
思い込みだったのかもしれないけど
失ったんだから、ゼロ。
ゼロのレベルは人それぞれだ。
これを読んでるあなたは、
自分が思うゼロの淵に、
立ったこと、あるのかな????
ゼロの淵は黒くないんだよ。
黒はマイナスの世界で
わたしが見たゼロの淵は、
真っ白だったんだ。
わたしはゼロの淵に立ったとき、
生き方を忘れていた。
息の仕方を思い出せなかった。
イチ、を持ってる人が
みんな眩しくみえるその世界は、
ずっと長く続きそうだった。
でも、
東北から帰った今ならわかる、
ゼロ、は
なんでもできる、の裏返しだった。
消したい過去がある君へ
何かを失ったあなたへ
ゼロの淵に立たされた誰かへ
失ったものは帰らないし、
起こったことはなくならないんだ。
嘆いたって、
悲しんだって、
大笑いしてみたって、
戻らないし、消えてはくれない。
震災も、
大事な人を失ったことも。
だからといって、
美化なんかしたらダメだと思う。
嫌なことなんか
無い方がいいに決まってる。
だったら振り返るな。
ゼロからイチをつくることに
むちゅうになるんだ。
ゼロはどんなに掛け算しても
ゼロのままだけど、
イチを作れたら掛け算できる。
イチのつくりかたは
きっと誰かが教えてくれる。
イチをつくる場所は
まちがいなく、いまここだと思う。
…のはわたしだけかな?
東北が教えてくれたこと。
ゼロから生きる人たちの強さ。
ミライ に期待する人々の目。
(完)
抽象的バージョンを
長々と書きましたが、
具体バージョンはまた後日っ。
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